インド・カルカッタの売春窟に生まれついた子供たち。彼らは外の世界を知らず、夢を持つことも許されない。だがある日、子供たちはカメラと出会ったことで、自分たちに無限の未来と希望があることを知る――。ニューヨークで活動する写真家、ザナ・ブリスキーが、売春婦の取材のためこの地を訪れたとき、そこで暮らす子供たちの悲惨な運命を目の当たりにし、衝撃を受ける。そして彼女は、子供たちをここから救い出したいという思いから、写真教室を開く。そこでは、インスタントカメラを使って、子供たちに写真のいろはを教えた。後に、子供たちの撮った写真は高く評価され、ニューヨークで写真展を開催するまでに。だが、子供たちを生まれ育った境遇から抜け出させることは容易ではなかった…。映像作家、ロス・カウフマンがザナの活動を映像に収めたドキュメンタリー。第77回アカデミー賞の最優秀ドキュメンタリー賞受賞作品(Cinema Cafe)
祝日明けの金曜日、しかも朝から雨が降ってた。こういう日は気分が乗らないので大学はサボり。きっといつものように誰も大学には来ないと思いきや、俺以外全員集合とのこと。講師も俺に目くじら立てたところで、ASHが「SHINは具合が悪いらしい」と報告・・・ ナイスフォローすぎるwww
授業をサボって俺はドキュメント映画を観てた。
それがBorn Into Brothels
詳しい内容とかは勝手にググってね。あらすじから感想・批評まで山ほどヒットするから。
この映画は一般的に目を背けたくなるような描写も含まれ、そのお陰でR指定までされてる作品。舞台はインド、コルカタの売春街。観終わってから他人様の批評なんか眺めてると、辛い画を辛いままに捉えて、中には「助けたい」など聖人君子みたいな台詞を吐くような文章もあった。貧乏、不潔、汚い、雑多、カオス・・・ この表現はコルカタに限らずインドならどこでも当てはまる言葉だと思うんだ。もちろんチェンナイも例外じゃない。世界の大部分はインドの状況にむしろ近いし、東京、ロンドン、NYの環境が特殊なだけ。特殊な場所に住んでる連中が作って見てるから変な感情が生まれる。
貧乏人ばっかりの汚くて不衛生な環境に1年以上自分自身の身を置いてみれば、
涙はおろか何も感じなくなる。
で?っていう・・・
ぶっちゃけ、貧困地帯、紛争地帯、難民キャンプでの経験から、もっとスゴイ最悪を期待した。あたかもカメラが潜入したのが奇跡であるような、人が人でなくなってるような、俺がまだ見たことないようなもっともっとヤバい状況を想像した。でも、実際はただの貧困層が群がる売春ストリートでの断片的な記録。もちろん、日本で見れる光景じゃないし、ショッキングなのかと言えばそうなのかもしれないけど、でも俺には画面の向こう側と同じ世界・環境にいるわけで今更可哀想とかいう感情も起きない。俺の部屋は何でも揃うリッチかもしれないけど、一歩外に出れば勝手にベランダで昼寝してるジャンキーを蹴っ飛ばして道を空けるのは俺の現実。
人間には免疫ってのがあって、最悪も時間が経てば慣れてくる。
体が理解して、その次に頭もちゃんと理解してくる。
だから、救いの手を差し伸べようとするイギリス人女性を見てて、やけに滑稽に思えた。この人がやってきたことは素晴らしいと思うけど、その行動心理の表も裏も読めるからこそ余計に突き放したくなる。
外の人間がちょっと同じ地域に住んだからって変化を起こせるほど貧困からの脱却は簡単じゃない。
ボランティア万歳!NGO万歳!
ODA万歳!国連万歳!
24時間テレビ万歳!コンビニ募金万歳!
ベジータさんはフリーザの強さに対して、自分の力では到底及ばないことで涙したという。それと同じ。貧困の問題はフリーザで援助関係者の力はベジータと同じで全く歯が立たない。
残念だけどMDGsも数字だけ見れば改善されてきたとしても、
それはスカウターのミスです。
人間が存在する限り、Born Into Brothelsみたいなドキュメンタリーはこれからもずっと作られる。
要するに貧困はなくならない。
学者が半世紀以上考えても答えはまだ出てないんだ。
貧乏人はいつまでたっても貧乏人のままなんだ。
人には運命がある。
その運命を肯定するために宗教は出来たんだろ?
何億人もの人間の運命を変えられるほど人間は賢くない
だから、どっかで開き直るのも必要なんだ。
俺の周りにいる奴は俺がなんとかする。
俺との関わりを持った奴はラッキーで、その他は誰かが拾ってくれるのを待つしかない。
運が悪い奴は野垂れ死ぬ。
すべての援助関係者はこういう考えで動くべきなんだ。
俺がZanaと同じように見られてると思うとカッコ悪すぎて死にたくなるね。
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